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ひょうごユニオン事務局長、武庫川ユニオン副委員長
小西純一郎さんの死を悼む
2022/10/12
小西純一郎さん
武庫川ユニオンの書記長を長く務め、現副委員長で、ひょうごユニオンの事務局長の小西純一郎さんが9月19日朝、肺がんのために急逝した。69歳だった。長く活動を共にしてきた津野公男さんから追悼文を寄せてもらった。 【編集部】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
労働運動、社会主義運動、平和運動、市民運動、文字どおりすべての分野で闘いの先頭に立ってきた小西純一郎さんさん。やり残した仕事は山積みで、各分野の後継者たちに運動の引継ぎ作業を行っている矢先の急逝でした。
小西さんは丹波篠山の出身で、「つづり方教育」(作文を通じて学級の民主主義的運営をめざす)運動で、教育界では指導的立場にあった小西健次郎氏を父にもって生まれました。のちに小西さんがユニオン運動に携わり、労働組合に組織されない弱い立場にある人たちや非正規の仲間の闘いを支援し、彼らの雇用を守り、労働条件の改善ために総力を挙げるようになるのは、多分にお父さんから学んだからではないかと、小西さんを知る人は言っています。
小西さんは神戸大学教育学部に入学し、そこで社会主義青年同盟に加盟しました。2歳下のパートナーは、学生運動をともにした同志です。
卒業後は臨時教員として西宮の鳴尾東小学校に勤務し、情熱をこめて教育活動に携わりました。そのとき、同じ学校に臨時教員として、上山史代さん(現武庫川ユニオン副委員長)が勤務されており、それがその後の長い付き合いの始まりです。
その後、小西さんは先輩から勧められ総評尼崎地方評議会のオルグとなり、国鉄闘争など、新自由主義への転換にともない強圧的になった資本・国家権力との闘いに明け暮れる日々が続きました。そして、1988年には未組織労働者や非正規労働者を組織すべく武庫川ユニオンの結成に加わり、以降、武庫川ユニオンの闘い、組織強化に尽力されてきました。
労働者には学習が大切だと、尼崎地評事務所に集まる若者たちと『資本論』や『共産党宣言』の学習会も主宰し、当時の言葉で言えば「社会主義と労働運動の融合」を常に頭に入れた活動を続けていました。そして多くの若者を活動家に育てました。さらに彼の活動領域は市民運動にも及び、尼崎市会議員たちのカラ出張事件では議会を解散に追い込む成果をあげました。
新社会党の尼崎総支部の結成にあたっては、言い尽くせないほどのお世話になりました。そして、結党早々に新社会党が闘った衆議院選挙では、厳しい条件にもかかわらず選挙区での立候補を決意していただきました。その後も、都築徳昭市会議員の選挙支援など、小西さんあっての新社会党尼崎総支部でした。
つねに背筋をピンとさせ、困難にあたって背中を見せず、真正面から闘い抜いた生涯。
道半ばで逝去された小西さんのやり残したものを、いかに引き継ぎ発展させるのか、それが残された私たちに与えられた責務です。
津野公男(新社会党尼崎総支部副委員長)
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武庫川ユニオンの書記長を長く務め、現副委員長で、ひょうごユニオンの事務局長の小西純一郎さんが9月19日朝、肺がんのために急逝した。69歳だった。長く活動を共にしてきた津野公男さんから追悼文を寄せてもらった。 【編集部】
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労働運動、社会主義運動、平和運動、市民運動、文字どおりすべての分野で闘いの先頭に立ってきた小西純一郎さんさん。やり残した仕事は山積みで、各分野の後継者たちに運動の引継ぎ作業を行っている矢先の急逝でした。
小西さんは丹波篠山の出身で、「つづり方教育」(作文を通じて学級の民主主義的運営をめざす)運動で、教育界では指導的立場にあった小西健次郎氏を父にもって生まれました。のちに小西さんがユニオン運動に携わり、労働組合に組織されない弱い立場にある人たちや非正規の仲間の闘いを支援し、彼らの雇用を守り、労働条件の改善ために総力を挙げるようになるのは、多分にお父さんから学んだからではないかと、小西さんを知る人は言っています。
小西さんは神戸大学教育学部に入学し、そこで社会主義青年同盟に加盟しました。2歳下のパートナーは、学生運動をともにした同志です。
卒業後は臨時教員として西宮の鳴尾東小学校に勤務し、情熱をこめて教育活動に携わりました。そのとき、同じ学校に臨時教員として、上山史代さん(現武庫川ユニオン副委員長)が勤務されており、それがその後の長い付き合いの始まりです。
その後、小西さんは先輩から勧められ総評尼崎地方評議会のオルグとなり、国鉄闘争など、新自由主義への転換にともない強圧的になった資本・国家権力との闘いに明け暮れる日々が続きました。そして、1988年には未組織労働者や非正規労働者を組織すべく武庫川ユニオンの結成に加わり、以降、武庫川ユニオンの闘い、組織強化に尽力されてきました。
労働者には学習が大切だと、尼崎地評事務所に集まる若者たちと『資本論』や『共産党宣言』の学習会も主宰し、当時の言葉で言えば「社会主義と労働運動の融合」を常に頭に入れた活動を続けていました。そして多くの若者を活動家に育てました。さらに彼の活動領域は市民運動にも及び、尼崎市会議員たちのカラ出張事件では議会を解散に追い込む成果をあげました。
新社会党の尼崎総支部の結成にあたっては、言い尽くせないほどのお世話になりました。そして、結党早々に新社会党が闘った衆議院選挙では、厳しい条件にもかかわらず選挙区での立候補を決意していただきました。その後も、都築徳昭市会議員の選挙支援など、小西さんあっての新社会党尼崎総支部でした。
つねに背筋をピンとさせ、困難にあたって背中を見せず、真正面から闘い抜いた生涯。
道半ばで逝去された小西さんのやり残したものを、いかに引き継ぎ発展させるのか、それが残された私たちに与えられた責務です。
津野公男(新社会党尼崎総支部副委員長)