新社会兵庫ナウ

南京訪問記 「神戸・南京をむすぶ会」の第24次訪中団に参加して
門永秀次(新社会党垂水支部委員長)

2025/09/10
中華門から雨花台を望む(雨花台に攻撃陣を敷いた日本軍は37年12月13日に南京城を陥落させる)=写真上、南京大虐殺の犠牲者を慰霊する燕子机慰霊碑の前で説明を聞くフィールドワーク参加者=写真下

 コロナ・パンデミックを挟んで6年ぶりの南京フィールドワークの再開だった。「神戸・南京をむすぶ会」(中国では「神戸南京心連心会」で通っている)の第24次訪中団である。団は、10歳台の高校生から70歳台後半まで全20人で、8月13日から18日まで。今回は南京城市内とその近郊でのみのフィールドワークだった。
様子が大きく変わっていた南京の街
 6年ぶりの南京の街の様子は大きく変わり、考えてみると、会が毎年夏に南京に通い始めて30年近くになる。日本のわれわれも高度成長期を挟む社会の激しい変わり様を経験してきた世代だが、この間の中国社会の変容のすさまじさには驚きを禁じ得ない。買い物もスマホ決済が普通で現金は嫌われるのではないかと心配していたのだったが、さすがそれはなく一安心だった。
 今回、もうひとつ今までと比べて際立っていたのが、「台湾有事」などを口実とする日本の軍拡などがもたらす日中関係の緊張の高まりを強く感じさせられたことである。ガイドからは、街を歩くとき余り大きな声、日本語での話は控えるように注意され、「侵華日軍南京大..殺遇難同胞紀念館」(以下、「紀念館」)では、われわれの団はすでに20回を優に超える訪問にもかかわらず、館内参観などで他の中国人参観者と一緒にならないように配慮されたり、また、フィールドワークも公安の警備付きだったりした。
8・15南京大虐殺追悼集会に参加
 さて今回のフィールドワークもいつものように8月15日、「紀念館」が主催する平和祈念の南京大虐殺追悼集会への参加と前述の虐殺現場などを訪ね、あらためて88年前(1937年)南京で起こった日本軍による事件の歴史を心に刻んで犠牲者を追悼し、その歴史をくり返さないことを誓うことがテーマだった。
 ただ今回の追悼集会は、「紀念館」の方針だったのか、いつもは韓国や台湾などいくつかの国からの代表団と一緒の追悼集会だったのが、今年は日本のわれわれの団だけでの集会であったのは少し残念であった。追悼集会では宮内陽子団長が追悼の言葉を述べ、団員のうち最年少の2人が犠牲者を悼む献花を行った。
「幸存者」2世からの証言の聞き取り
 集会後は、これも恒例の「幸存者」(中国では、過去の惨案を経験し現在も生き延びている人たちを指す言葉)の当時の証言を聞く。ただ日本と事情は同様だが、南京大虐殺の事件を自らの経験として語ることができる世代は徐々に舞台から退場していく。今回はその2世、曹玉莉(ツァオ・イーリー)さんに、日本軍が南京城市に迫るなか商売の都合で南京を離れる訳にはいかなかった父方の叔父2人をはじめ母方の親戚6人が日本軍に殺された様子を、幸いにして生き残った父母たちから伝えられた証言を聞いた。母親は1937年の出来事を経験してからずっと警報のサイレン音や「日本人」という言葉を聞く度に身体を震わせていたという。
他の虐殺「紀念碑」も訪問
 今回フィールドワークで回った虐殺の「紀念碑」の建つ場所は、燕子磯江灘、草鞋峡、煤炭港、中山埠頭、.江門、ラーベ邸旧址、利済巷慰安所陳列館、南京師範大学(旧金陵女子大学)などであり、いずれも「紀念碑」には1937年当時の日本軍による暴虐の事実、その犠牲者(遇難同胞)の数などが刻まれており、団は碑銘をいちいち読み上げながら旧日本軍の加害の歴史を心に刻み、犠牲者へ思いを馳せた。
  このほか、37年12月13日に南京城は陥落するが、その時の激戦地の跡である中華門、その近くに比較的最近になって建てられた民間の抗日戦争博物館や旧国民党軍の将校クラブであった勵志社旧址(1946年2月、ここに戦犯裁判のための軍事法廷が設置され、谷寿夫旧第6師団長らが南京虐殺の責任を問われ死刑判決を受けた)も訪ねた。現在はここに戦犯法廷の資料等を展示する興味深い陳列館が設置されている。
9・25に神戸学生青年センターで報告会
 なお、訪中団の報告会は9月25日午後6時から阪急六甲の神戸学生青年センターで行われる。それに先立ち、午後4時からは南京をテーマにした映画を見る会も行われる予定だ。