新社会兵庫ナウ

若者の広場(2024年10月23日号)
政治的であること

2024/10/23
 私はいわゆるロスジェネ世代といわれている年代で、学校卒業時は不景気で就職難の時代でした。先行きの見えない中、コンビニや飲食店で非正規雇用の労働者として働きながら、運よく民営化前に大量採用をした郵政公社に入ることができました。当時の集配の職場は20代の非正規雇用の人が多く活気がありました(今は若い人の数は少なくなりました)。その一方でベテラン正社員が強制配転され、当局による非正規労働者への一方的な雇い止めが行われていました。そうした職場実態から、労働者をモノのように扱う経営権の専制が実感として感じ取ることができたと思います。
 近年では人手不足が顕著になり、様々な業界で後継者不足が言われていますが、少なくても30年にわたり、労働力を企業利益のために非正規労働者として格安に浪費的に消尽した結果、残ったのは大企業の内部留保だけで、日本経済の低迷、そして社会的な衰退。これこそ日本的な新自由主義の経済政策であり、「階級政治」の結果であったと言えます。
 入って5年くらい経って、強制配転で支部外に出され(そしてだんだん「強制配転」という言葉も使われなくなっていきました)、労働組合の活動を積極的に担うようになりました。労働運動は「団結」し「団体行動」をすることで経済的成果のみならず、さらには階級意識、政治的主体の確立をも目指していくものです。そういう意味においては、労働運動は経済領域における「政治行動」というべきものだと言えます。
 「労働者」という言葉も使われなくなってきている昨今、「労働者意識」は雲散霧消したのかと思うこともあるかもしれませんが、「労働者意識って何?」と言うと、人をモノのように扱う資本に対し、それに抗い対峙する意識なのではないでしょうか。労働現場で日々感じる抑圧は、NISAをやったり、僅かな貯金を株式に突っ込んだりして経営者マインドを装うよりも、断然リアルなんじゃないかと思います。
 しかしながら、新自由主義政策のもと、「自己責任」論は人々の意識に着実に根付いていきました。私はそこに「社会が解体されていく感覚」を感じざるを得ません。これを食い止めるには政治的に闘うことが求められています。しかしながら、トランプ的なものに代表される劣化した政治は、権力への追従・排外主義・弱者への冷笑・政治的デマにあふれ政治的対話を蝕んでいます。
 フェミニストの有名な言葉に「個人的なことは政治的なこと」というのがありますが、政治というのは日常的なことや、当たり前とされる日常への批判から見出すことができるものではないでしょうか。政治を我々の手にとりもどすためにはそうした「小さな政治」と「議会で扱う政治」をつなげていく発想が必要だと思います。
 私は2025年6月の尼崎市議選に挑戦することを決意しています。前途多難ではありますが、なぜ政治に取り組むのかという原点を忘れず進んでいきます。
(一ノ瀬剛)